波縫い日記・2021年6月と今日

【2021年6月23日(水) 日記より 鬱】

おかしい。

なんでみんな平気なふりをずっとできるのか。

まさかほんとに平気なのか?

だとしたら頭狂っちゃってるよ。

私なんてもうこの世界が無理すぎて爆発してしまいそう。

てか爆発できるならしたい。

 

 

この世界は金がないと生きていけない。

おかしい。

人間以外は金なんかなくても生きていけるのに。

人間社会のしくみ作った人もれなく嫌い。

しにたくなる世界にしやがって。

本当はしにたくないよ。

でも疲れた。

社会のしくみに文句言ったって何も変わらないのはわかってるから、もういっそのこと誰か。

生きてるの疲れた。

 

 

こういうこと考えながら、ずっと生きてしまっている。

文句言いたいのは社会に対してじゃない。

もっと近くのこと。

仕事のこと、職場の人のこと、家族のこと、自分のこと。

募り募って社会のせいにしてるだけ。

クソ野郎だよ。

 

 

なんでこんなのになってしまったんだろう。

変わりたい。

ずっとこんな自分が嫌で変わりたいと思ってる。

いっつもそう。

思ってるだけ。

行動できない。

周りの目が気になる。

自分に何かの才能があると信じてあらゆることをサボってる。

ねえよ才能なんて。

21年生きてきてそれはわかってきた。

でも何かどこかに才能があるんじゃないかと思ってしまう。

ないのに。

 

 

なぜないのかというと、まず自分の好きなことがわからないから。

学生時代ずっと優等生のふりしてた、そのツケ。

あの頃は勉強がそれなりにできて物分かりが良くて目立ったことしなければ、楽に過ごせてた。

けどあれは評価されていたんじゃなく、目立ってなかっただけ。

社会に出て必要だったのは目立たないようにする技術じゃなかった。

コミュニケーション力だった。

コミュニケーションなんて、自分が一番サボってたことだった。

学校って何だったんだろう。

 

 

話を戻すと、好きなことがわからないということは、

何をすればいいかわからない。

だからいろんなものに手を出すんだけど、

飽き性が働いてどれもすぐに辞めてしまう。

これが自分に才能がない理由。

続けられないから。

 

 

坂口恭平は行動力もさることながら、継続力がある。

継続することの価値を知っているんだと思う。

継続のために必要なのは、

自分を知ること、他人の評価を気にしないこと、かな。

たぶん。

自分に才能がないことを知り、受け入れ、

自分からの評価を信じて好きを追求する。

的な。

ああ~私はそれっぽいことを言うのが得意だな。

何も経験してないくせに。

 

 

でもこれが本当にできれば「それっぽい」じゃなくて本物になるな。

なりたいな、本物。

あ、あと継続には推進力を利用するって話を坂口恭平が何かの記事で言ってたな。

推進力。

 

 

なんか…

これ書き始めたときはどうやっておしまいにしようか軽く考えるくらいネガティブだったけど、

徐々にポジティブ人格が現れてきてるな。

私はこうやって心のバランスギリギリ保ちながら生き延びてきてるんだな。

ギリギリ。

 

 

今日も今日までの蓄積がちょっとしたきっかけで破裂して精神崩壊ボロ泣きして、

これ書きながら頭の整理して、ギリギリで保ててる。

それを経験でわかってるから死なない。

ギリギリだけど。

このギリギリは怖いから嫌だな。

死なないにしても定期的に死ぬほどしんどくなるのは嫌。

だから変わる必要がある。

でも劇的に変わる必要はない。

徐々に。

 

 

あんまり変わってる実感って感じにくいけど、

今だって前に比べてスマホ見なくなったり運動しようと思うようになったり

睡眠大事にしたり、良い方向にちょっっっとずつ変わってるから大丈夫。

まずは声を大きくする。

その一点張り。

新しいことはかなり意識しないと元通りになってしまうので注意。

 

 

 

 

<数時間後の日記>

今日は仕事休みだけど早起きできた。

8時過ぎくらいから散歩もできた。

偉い。

Creepy NutsのANN0聴きながら、ちょうど終わるころ家に帰ってきたから1時間半。

1万歩いった。嬉しいなあ。ちょうど良かった。

あと今日はプライムビデオで映画観た。

マイ・プレシャス・リスト』良かった。

家の中にいるのも楽しいけど、外にもいろんな楽しさがある。

外出するのも悪くない。

 

 

あ、今日の天気、思ったより悪くなかった。

なんなら日が射すときがあって暑かったくらい。

1万歩歩くんだったら太陽出てなくて風があるときのほうが好ましいなと思った。

 

 

映画観たあと、夕食に何作ればいいかわからなくなってどんどん気分落ちていった。

作れるものなら何だってあったんだけど、

もっと凝った料理のほうがいいのかなとか考えてたら迷宮入りしてやる気失せて、洗濯物畳めないほど落ちて、

何もできない自分が嫌になって自爆。

 

 

完璧求めすぎてバグってる。

否定はしないけど、やっぱりそれって生きづらいし怖いし危ない。

適当になろ。

徐々に。

 

 

 

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【今日:2022年10月9日(日) 

     過去の日記を読んで ちょっと躁】

なっが。文字打っててびっくりした。

最初鬱すぎて心配になるね。

でも躁のときより文章上手な印象。

自分の内面のことに関してのみ語彙力高くなるっていうのは鬱のときの特徴なのかな。

あと一文が短くて簡潔。

鬱だと頭の回転遅くなる感じがもどかしいけど、

その分じっくり言葉を選ぶからいいのかもね。

言ってることももっともだし。

そしてこの日はなんと日記書いてるうちに気分がすっきりしてきている。

日記にはセルフケア効果があるねえ。

 

 

この日の時系列をまとめると

早起き→ラジオ聴きながら1時間半散歩→映画→献立考える→迷宮入り→何もできない無理→鬱日記→回復→日記

という感じ。

 

 

最初鬱どころか躁くらいの行動力なのに、あんなに鬱になるんだなあ。

家事ってむずいよなあ。わかる~。

 

 

当時も書いてるけど、完璧を求めすぎてる。

未だにそう。

でも今は当時よりうまく生きれてると思う。

やりたいことができて、転職もした。

自信が少しついてきたというのが大きい。

 

 

まじ生きてるだけで偉いけど、生きてるだけじゃつらい。

自分でどうにか楽しく生きていきたいよな。

 

 

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これは最近撮ったお気に入りの写真。

 

 

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬を読んだ

若林正恭さんの著書『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んだ。キューバへのひとり旅エッセイ。2017年に刊行された同タイトルの単行本に、「モンゴル」「アイスランド」「あとがき コロナ後の東京」の書き下ろしを加えて2020年に刊行された文庫本。

 

まず、芸人って面白い文章を書くよなーと思った。又吉直樹さんをはじめとする数々の芸人の本が高い評価を得ているイメージがある。構成とか言葉選びとかが面白い。そういうところはネタを書く時にも気にかけるから活かされているのだろう。若林さんの文章の上手さは本が好きというのも関係しているのだろうけど、いくら本が好きでも書くことが好きでも、内容の面白さには直結しない。ではなぜ面白い文章が書けるのか。若林さんは、ラジオパーソナリティやバラエティ番組のMCをこなせるほど人のことをよく見ているし、会話が上手い。芸人として培ってきた観察眼やものごとを見る角度、話の組み立て方などのいろんな力、笑いに至るまでの道のりが、執筆に活きているんだろうと思う。面白くてすらすらと読めた。筆者は本を介して読者と会話することはできないけど、それでも読者を引き込める若林さんは言葉の使い手としてもプロなんだなー。

 

この本はただの紀行文ではない。若林さんがひとり海外旅行を通して、いろんなものに気付いて、人として前に進んでいく様が伺える。悩みながら生きる姿に私はすごく救われた。

また、外国と日本をよく比較している。たとえばキューバには、「血が通った関係」があると若林さんはいう。ただ他愛もない話をする、ただ楽器を演奏する、ただ人と一緒にいる。そういう人たちを見てきたようだ。その「血が通った関係」はきっと利益にはならなくても、感情を生む。どんな国の人間でも、感情は捨てるべきものではない。感情が人生を豊かにするであろうことは容易に想像ができる。しかし、この国はどうだろう。この国にも便利だとか平和だとか綺麗だとか良い面があるのは確かだ。でも私は今の日本に、がんじがらめでよくわからないままものすごい速さでものごとが進んで感情や思考が置いてけぼりになる感覚がある。この本を読みながら、その感覚への違和感がより強くなった。だから若林さんは、単純に日本が嫌になったから逃亡するように海外旅行に行ったのかと思っていたが、読み進めていくとそうではないことがわかる。いや、それもあるんだけど主軸はそこじゃなくて、日本で生きるために、日本を見るために、そして家族とか幸せとか人にとって普遍的なものの輪郭を捉えるために行ったんだろうと感じた。

私も海外旅行に行きたい。生まれてこの方日本から出たことのない私が海外に行ったら、何を見て何を感じるだろうか。でも、このご時世に旅行しかも海外旅行など、容易に行けるものではない。本当に心が枯渇しそうな時代だ。外に向かって動くことにどれほど価値のあるか、よくわかる(そこに気付けたという点ではこの時代を生きることができてすごーーーくありがたい)。

それから、あとがきが良かった。え、これがあとがき?と思うくらい濃くて深くてリアルで、共感した。あとがきと本編とが互いに良い影響を与えていて、とても味わい深い。

ちなみに解説はCreepy NutsのDJ松永さん。これは、解説というよりラブレターではないか。第三者が読んでいいのか躊躇うくらいの愛が感じられる。若林さんは、自分の弱さをそのままさらけ出せる強さを持っている。その人間らしい姿が人を救うのだろう。

若林さんの芸人ならではのコミカルな文才と、人としての生き様を見ることができる、最高の本だった。

 

 

ええい儘よ

一日中オードリーのオールナイトニッポンとニュー宝島を垂れ流してた。オールナイトニッポン昨日の分2時間聴いて、その後ずーっとニュー宝島。第5回から聴いて第22回までいったからかなり聴いた。もういま聴いてないのに、小原さんと宇野さんの声が脳みそにこびりついてしまっている。2人とも方言強いからなおさら。鍋底の焦げ付きくらいこびりついてる。

で、今日はそれを垂れ流しながら何をしてたかというと、ずっとチクチクアミアミしてた。

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これは、何なんだろうね。何を作ろうとか決めないで作ったから自分でもわからない。でも改めて見たら顔に見えてきた。水色のモワモワが髪の毛、ベージュっぽいレース編みのやつが耳、黄色い輪っかが目、青い横線が口、その他がほくろとか吹き出物とかで、鼻はない。

こんなの作ったって何の役にも立たないけど、ただ感覚的にもの作ってる時間が好き。刺繍したり編み物したり、あと絵描いたりとかもそう。いろいろ組み合わせられるのも良いね。作るものは使えないもののほうが好き。具体的なものを作ろうとすると、上手くしようとしすぎて飽きるから。あと手動かしてると、変に考えすぎることがなくて良い。落ち着ける。今日みたいな気楽な時間を増やしていきたい。

 

 

 

あ、明日からおちょやん最終週だ。このあいだ始まったばっかりなのに、はやいなあ。そういえばもう5月だもんな。

 

 

 

ついでに(?)最近読んでよかった記事を貼っつけとこ。

ten-navi.com

natgeo.nikkeibp.co.jp

gyoppy.yahoo.co.jp

うつけ

仕事だるいぞー。大型連休は罪深いぞー。連休中はのんびり過ごせていいんだけど、終わってからが辛い。連休前まで意識しなくてもできていたことが、意識しないとできなくなってる。めんどくさい。嫌になる。凹む。

というわけで連休明けから気分下降中。最近けっこう調子良かったからまあまあショックだなあ。下降し始めると厄介なのが、調子良かったときの自分を思い出すこと。あのときの発言調子乗ってんなーとかそういうのが湧いてくる。過去の自分の全能感によって自己嫌悪に陥る。ひとり遊び。馬鹿みたい。存在ごと消えたいけどそれはできないから、とりあえずスマホ壊しとこかな?って毎回思う(思うだけで壊したことはない)。

今回はどこまで落ちるかな。こわい。もしかしたら数年下降し続けるかもしれない、もしかしたら明日には上昇し始めるかもしれない。わからないのが一番こわい。まあどん底まで落ちちゃえば上がるだけなんだけど、どん底は嫌。めんどくさい。嫌。ああ。

ネガティブなことばかり言ってしまうけど、いまは仕方がない。経験上、こういうときこそ感じるままに過ごすのがいい。無理に感情を押さえつけないで、悩みたいんだったら悩むし、考えることに飽きてもいいし、頭の中ではどんなことでも言ってもいいことにする。他人と接するときは要注意だけど、ひとりのときは何でもあり。あるがまま。あと自然に触れるのがいいね。自然は誰も咎めない。ただそこにあるだけだから気が楽。

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(本日の夕焼け。あったかそう)

あ、待って。連休明けっていうのもあるけど生理前っていうのも原因のひとつだな?いっつも忘れて始まってから気づくんだけど今回は思い出せた。あ、腑に落ちた。良かった。

それに、ちょうど良かったのかも。気分下降するたびに前はどうやって生きてたかわからなることにいつも困ってて、今度こそ自分と向き合っておこうと思ってたから。なんか今回大丈夫そう。

気分の波がひどいと疲れるからニュートラルな状態でいたいけど、たぶん私は一生上がったり下がったりする。自分との付き合い方が少しずつ少しずつわかってきたかもしれない。未だにわからないことのほうが多いけどまあ、付き合い下手でもどうせ死ぬまで生きなきゃいけないし。頑張るのもありだし楽するのもあり。無理さえしなければいいな。

好きブレーキ

このごろ好きな人やものが増え続ける。それは楽しいことだし、鬱で死んだように生きていたときを思い出すとありがたいことだ。しかし、困っている。

いかんせん、お金がかかる。お金持ちだったらできることが広がるんだろうけど、私はお金持ちではない。お金持ちだったらいいのに。しかし自ら選んで今の仕事をしているわけで、仕事にこれといった不満があるわけではないから、それはただのないものねだりでしかない。

 

 

好きの連鎖が止まらないのはなぜだろう。好きだと思うハードルが低いからか?相当なことがないと何かを嫌いにならないタチだからか?時間があるからか?たぶん全部そうだ。

あと、好きな「人」だと特にお金がかかるんじゃないか?人を好きになったら、その人の書く文章を読みたくて本を買うし、その人が出ている映画を観たくて、舞台に立っている姿を観たくてチケットを買うし、その人の音楽を聴きたくてCDを買う。それならお金がかかるのは当然だ。お金を出せば確実に何かを得られるし、好きな人の役に立っているようで嬉しくなる。それを否定するわけではないが、私の場合、人を好きになりすぎている。でもこれは仕方ない。世の中に面白い人が多すぎるのだ。

きっと「もの」を好きになったほうがお金はかからない。まあどちらにせよ節度を保たないと結果的にお金はかかるだろうけど。この節度というものが難しい。

 

 

あ、書きながら思いついた。好きな「もの」を自分がつくる側になったら、好きな「こと」になる。音楽をつくったり、執筆したり、料理をしたり、編み物をしたり。お金はかかるけど、創造性のあるほうがいいかもしれない。好きなことを極めれば、お金がかかるどころの話ではなくなり、お金を稼ぐこともできる。

私だってお金は欲しいけど、だからといって好きなことを仕事にすると嫌いになってしまいそうで怖い。飽き性だし。これからも、好きになったら好き、ただそれだけでいい。

 

 

そんなことより好きの連鎖が止まらなくてお金がかかるのが問題だ。今までどうやって止めていたのか忘れてしまった。困る。

でも、楽しいほうがいい。身の丈をわきまえつつ、楽しいほうを選んでいたい。

学校の記憶、非属の才能

私には、将来なりたい職業がなかった。学校で将来を見据える時間が多くあったが、あの時間がとても嫌いだった。なぜ他のクラスメイトはなりたい職業があるんだろう、きっとそれだけ経験値が高いんだ、私は将来のことを決められるほどの人間じゃない、駄目な人間なんだ、ということばかり考えていた。いま思えばそんなに重く考えなくてよかったし、私の他にも将来が決まっていない人はいたはずだ。でも当時は、教室の空気や先生から勝手に圧を感じて、勝手に苦しんでいた。

なぜ学校は、そんなことを考えさせるのだろう。まだ生まれてから十数年で、しかもそのほとんどを学校の中で過ごしているというのに。それではそもそも知っている職業が少ない。学校の外にはもっと広い混沌とした世界があることを、子どもは誰にも何にも教わらなくてもわかるだろうか。

 

 

学校に関してもうひとつ。小学生のとき、授業で辞書の使い方を学んだときのことを覚えている。辞書の使い方なんて間違いようがない気がするし使っていくうちにわかるものだと思うが、当時は何の疑問も持たず学んでいた。使い方を一通り学んだあと、先生が指定した言葉を調べていたところ、先生に「辞書はページ数が小さいほうから大きいほうにめくりましょう」と個人的に指摘された。どうやら私は逆からめくっていたらしい。素直に返事をして言われた通りにしたが、頭の中は大混乱だった。他人の話はちゃんと聞く子どもだったから、さっきまでそんなこと言ってなかったのがわかったし、それなのに私が間違えたみたいになってて嫌だったし、なによりも、私は感覚的に(利き手も関係してると思う)ページ数が大きいほうからが使いやすかったからそうしたのであって、使いやすいように使うことの何が悪いのかわからなかったし、そんなことまで決めなくても言葉を調べられればなんだっていいじゃん、と。先生は、あいうえお順のほうが調べやすいからそう言ったのだと今ならわかるが、それは私にとって余計なお世話だった。

しかし、なぜ同じでなくてもいいことを半強制的にさせるのだろう。その先生が誰だったかとか何年生だったかとか細かいことは覚えていないが、その出来事は強烈だった。

 

 

私は学校が嫌いだった。嫌なことばかりだったわけではなく楽しいこともたくさんあったし、多くはないけど友だちもいた(こんな私と仲良くしてくれた優しい人たち、ありがとう)。でも、学校が嫌いだった。とくに義務教育が嫌いだった。なぜ、たまたま同い年でたまたま近くに住んでいる人たちと、ひとつの場所に閉じ込められて同じ授業を受けなくてはならないのか。私は他人と同じことが嫌いだったから、なおさら息苦しさを感じていたと思う。でも学校という巨大組織に立ち向かえるほどの強さはなかった。宿題をしないでみたり仮病で休むことくらいしかできなかった。学生時代の私を知っている人には意外に思うかもしれないが(もしくは見破っていた人もいるかもしれない)、私は本当に不真面目で、そういう小さな反抗を繰り返していた。

 

 

 

 

 

そんな私も学校を卒業し、いまではすっかり自由の身だ。宿題もテストもない。勉強もしなくたっていいが、私は無駄な時間がなくなった代わりに知りたいことが増えたから、結果的に勉強はしていると思う。自分でものを選ぶことができて、好きなように生活できる。すべての選択が自分の責任になるが、学生時代よりだいぶ生きやすくなった。

最近、山田玲司さんの『非属の才能』を読んだ。

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この本を知ったときタイトルにピンときて、これは読まなければならない!と強く思った。筆者、山田玲司さんのことは存じていなかったが、世界で最も多くの人に話を聞いている漫画家だという。

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この本を読んで、私はいろんなものに疑問を持ち、自分の頭で考えられる人間で良かったと安心した。筆者のいう「非属の才能」をもつ先達の存在は心強い。

本の大半では非属の才能の持ち主を肯定してくれるから、私はコンプレックスを褒められているような気持ちで読み進めていた。しかし、最後の章はそれまでと雰囲気が違った。とくに「自分病」についての話は正直ものすごく耳が痛かったし、私もそうなっている可能性は大いにあるため、ぞっとした。が、それは非属の才能の持ち主がどうすれば生きやすくなるかについての話であって、筆者の優しさなのだと思う。才能を無駄にしないための心遣いもあるのは、才能を肯定するだけよりも多分にありがたいことだ。自分病に罹らないよう、努力をしようと思った。

 

 

『非属の才能』が気になる人は、ぜひ読んでほしい。本を買わなくても無料で全文読めるから。

honsuki.jp

 

 

私には、受けたくもない授業を受けたり、宿題に追われたり、テストで学力を数値化して他人と比べられたりする場所に縛られるよりも、学校という量産型人間工場のコンベヤに乗るよりも、やるべきことがあった。自分ではない何かにたくさん触れ、自分を知ること。そして自分にとっての価値を知り、自分を信じること。それが幸せに生きるということへ繋がるのではないか。いまの日本の学校は、それを遮り社会にとって都合のいい人間をつくる場所になっている気がする。それでは日本全体が鬱々としてしまう。もうそうなっているかもしれない。いまの私は他人を救えるほどの余裕はないからそうならないよう願うばかりだが、せめて自分だけは自分の手で幸せにしたい。

 

 

 

 

 

昨日、本屋で辞書を買った。面白いと噂の新明解国語辞典。最新の第八版。色が赤・青・白と並んでいたが、私はよく使うものは色がうるさくないほうがいいと思って白を買った。

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私は今も辞書で言葉を探すときは、ページ数が大きいほうから探す。…のだったら収まりがよかったのだが、実際は気分によってページ数が小さいほうからのときもある。新しい相棒、よろしくどうぞ。

 

 

 

 

 

『非属の才能』は、私が一方的に知っているだけの某氏がこの本をSNSに投稿していたのをきっかけで知った。その某氏、山田玲司さん、この本に携わったすべての人々に感謝する。ここまで読んでくれたあなたにも。ありがとうございます。

1990年

ゴールデンウィークど真ん中の朝。今日は夢の途中で目が覚めた。その夢では、テーマを決めて服を選んでそれを発表するという課題が出されて、テーマを決める時点で苦戦していた。起きてから、そこで苦戦するのめちゃくちゃ私じゃんって思った。自分の夢だから当然なんだけど。テーマ決めるのって難しくない?ずっと苦手。まあそんなことはどうだっていい。今日も面白い日にしよう。

 

 

 

昨夜、たまの『さんだる』というアルバムを久しぶりに聴いてみた。感想、このアルバムめちゃくちゃ怖い。圧倒的な技術があって歌詞がすごいっていうのはわかるけど、ちゃんと聴けば聴くほど気が狂いそうになる。内臓かき乱されてるみたいになる。吐きそうになる。あぶねえ。

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このバンド、「たま現象」と言われるほど売れたらしい。1990年にメジャーデビューして同年このアルバムを発売したというたま。私が生まれる10年前だ。通称イカ天という音楽番組への出演をきっかけにバカ売れしたって話だけど、なんで売れたの?音がポップだから?ポップだったら中身は何でもいいの?歌詞えぐいよ?ダークだよ?地上に出てきて大丈夫だったの?それとも中身も含めて売れるべくして売れたの?そもそもイカ天ってどんな番組だったの?どんな時代だったの?って疑問がとめどなく湧き出てくる。曲自体は素晴らしいと思うけど、なぜ売れたのか気になる。

 

私の偏りのある知識からすると1990年って、ちびまる子ちゃんの放送が始まった年だよね。ちびまる子ちゃんっていかにも子供向けアニメって風貌だけど、見かけによらず、シュールで毒気がある。この「見かけによらず」というところがたまと似ている。ちびまる子ちゃんに関しては、昔のほうが今よりその傾向が強かったらしいし、漫画もはじめの頃はダーク感が強めらしい。読んでみたい。それに日本人の大半が知っているであろう「おどるポンポコリン」だって、愉快なメロディーだけど歌詞は世の中を皮肉っている。全体的にダークメルヘンな感じがする。

ちなみにさくらももこさんはたまが好きだったという。類は友を呼ぶ?ちびまる子ちゃんのあるときのエンディングテーマ「あっけにとられた時のうた」はたまが歌っている。

 

たまとかさくらももこさんとかが売れるということは、混沌としている時代だったのかな。だとしたら今と似てる気がする。世の中が変わる感じがある。生まれる前のことは知らないけど、おおよそそんな感じじゃないかと思う。

 

 

 

たまの存在を知ったのは、フジファブリック山内総一郎さんが、まさに、たまの『さんだる』を紹介していたのがきっかけ。私はフジファブリックが大好きで、数年前、山内総一郎さんのことが気になって気になってしゃあないみたいな時期があった。そのときに山総本と呼ばれる雑誌を読んで。

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山内総一郎さん好きにはたまらない本)

そこでこのアルバムを紹介していたので買った。単純明快。買った当時も聴いたんだけど「?」という感じで、アルバム3周くらいしてまったく聴かなくなった。それから数年経った昨日、何となーく聴いてみて今に至る。なんで急に聴こうと思ったのかは謎だけど、やばいアルバムだった。そしてこれを紹介する山内総一郎さんもやばいね。フジファブリックって変態の集まりだね。最高。あ、いつかフジファブリックのこと話しておきたいな。