学校の記憶、非属の才能

私には、将来なりたい職業がなかった。学校で将来を見据える時間が多くあったが、あの時間がとても嫌いだった。なぜ他のクラスメイトはなりたい職業があるんだろう、きっとそれだけ経験値が高いんだ、私は将来のことを決められるほどの人間じゃない、駄目な人間なんだ、ということばかり考えていた。いま思えばそんなに重く考えなくてよかったし、私の他にも将来が決まっていない人はいたはずだ。でも当時は、教室の空気や先生から勝手に圧を感じて、勝手に苦しんでいた。

なぜ学校は、そんなことを考えさせるのだろう。まだ生まれてから十数年で、しかもそのほとんどを学校の中で過ごしているというのに。それではそもそも知っている職業が少ない。学校の外にはもっと広い混沌とした世界があることを、子どもは誰にも何にも教わらなくてもわかるだろうか。

 

 

学校に関してもうひとつ。小学生のとき、授業で辞書の使い方を学んだときのことを覚えている。辞書の使い方なんて間違いようがない気がするし使っていくうちにわかるものだと思うが、当時は何の疑問も持たず学んでいた。使い方を一通り学んだあと、先生が指定した言葉を調べていたところ、先生に「辞書はページ数が小さいほうから大きいほうにめくりましょう」と個人的に指摘された。どうやら私は逆からめくっていたらしい。素直に返事をして言われた通りにしたが、頭の中は大混乱だった。他人の話はちゃんと聞く子どもだったから、さっきまでそんなこと言ってなかったのがわかったし、それなのに私が間違えたみたいになってて嫌だったし、なによりも、私は感覚的に(利き手も関係してると思う)ページ数が大きいほうからが使いやすかったからそうしたのであって、使いやすいように使うことの何が悪いのかわからなかったし、そんなことまで決めなくても言葉を調べられればなんだっていいじゃん、と。先生は、あいうえお順のほうが調べやすいからそう言ったのだと今ならわかるが、それは私にとって余計なお世話だった。

しかし、なぜ同じでなくてもいいことを半強制的にさせるのだろう。その先生が誰だったかとか何年生だったかとか細かいことは覚えていないが、その出来事は強烈だった。

 

 

私は学校が嫌いだった。嫌なことばかりだったわけではなく楽しいこともたくさんあったし、多くはないけど友だちもいた(こんな私と仲良くしてくれた優しい人たち、ありがとう)。でも、学校が嫌いだった。とくに義務教育が嫌いだった。なぜ、たまたま同い年でたまたま近くに住んでいる人たちと、ひとつの場所に閉じ込められて同じ授業を受けなくてはならないのか。私は他人と同じことが嫌いだったから、なおさら息苦しさを感じていたと思う。でも学校という巨大組織に立ち向かえるほどの強さはなかった。宿題をしないでみたり仮病で休むことくらいしかできなかった。学生時代の私を知っている人には意外に思うかもしれないが(もしくは見破っていた人もいるかもしれない)、私は本当に不真面目で、そういう小さな反抗を繰り返していた。

 

 

 

 

 

そんな私も学校を卒業し、いまではすっかり自由の身だ。宿題もテストもない。勉強もしなくたっていいが、私は無駄な時間がなくなった代わりに知りたいことが増えたから、結果的に勉強はしていると思う。自分でものを選ぶことができて、好きなように生活できる。すべての選択が自分の責任になるが、学生時代よりだいぶ生きやすくなった。

最近、山田玲司さんの『非属の才能』を読んだ。

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この本を知ったときタイトルにピンときて、これは読まなければならない!と強く思った。筆者、山田玲司さんのことは存じていなかったが、世界で最も多くの人に話を聞いている漫画家だという。

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この本を読んで、私はいろんなものに疑問を持ち、自分の頭で考えられる人間で良かったと安心した。筆者のいう「非属の才能」をもつ先達の存在は心強い。

本の大半では非属の才能の持ち主を肯定してくれるから、私はコンプレックスを褒められているような気持ちで読み進めていた。しかし、最後の章はそれまでと雰囲気が違った。とくに「自分病」についての話は正直ものすごく耳が痛かったし、私もそうなっている可能性は大いにあるため、ぞっとした。が、それは非属の才能の持ち主がどうすれば生きやすくなるかについての話であって、筆者の優しさなのだと思う。才能を無駄にしないための心遣いもあるのは、才能を肯定するだけよりも多分にありがたいことだ。自分病に罹らないよう、努力をしようと思った。

 

 

『非属の才能』が気になる人は、ぜひ読んでほしい。本を買わなくても無料で全文読めるから。

honsuki.jp

 

 

私には、受けたくもない授業を受けたり、宿題に追われたり、テストで学力を数値化して他人と比べられたりする場所に縛られるよりも、学校という量産型人間工場のコンベヤに乗るよりも、やるべきことがあった。自分ではない何かにたくさん触れ、自分を知ること。そして自分にとっての価値を知り、自分を信じること。それが幸せに生きるということへ繋がるのではないか。いまの日本の学校は、それを遮り社会にとって都合のいい人間をつくる場所になっている気がする。それでは日本全体が鬱々としてしまう。もうそうなっているかもしれない。いまの私は他人を救えるほどの余裕はないからそうならないよう願うばかりだが、せめて自分だけは自分の手で幸せにしたい。

 

 

 

 

 

昨日、本屋で辞書を買った。面白いと噂の新明解国語辞典。最新の第八版。色が赤・青・白と並んでいたが、私はよく使うものは色がうるさくないほうがいいと思って白を買った。

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私は今も辞書で言葉を探すときは、ページ数が大きいほうから探す。…のだったら収まりがよかったのだが、実際は気分によってページ数が小さいほうからのときもある。新しい相棒、よろしくどうぞ。

 

 

 

 

 

『非属の才能』は、私が一方的に知っているだけの某氏がこの本をSNSに投稿していたのをきっかけで知った。その某氏、山田玲司さん、この本に携わったすべての人々に感謝する。ここまで読んでくれたあなたにも。ありがとうございます。