サブカルの謎は謎のまま

私はサブカルが好き。と言えば、他人に自分の好きなものをざっくり伝えるには伝わりやすいと思うけど、私はこの「サブカル」がいろいろと好きではない。

 

 

まず私はとにかく何でもかんでも分けようとするやつが好きではない。人とか、文化とか。わかりやすくするために分けられるのだと思うけど、境界線にいる人やものもあることを知っているのだろうか。

人がジャンル分けされることは、特に学校で多いと思う。スクールカーストとか陰キャ陽キャとか。低俗だ。陰キャ陽キャと仲良くなれないのか?そんなことはない。ジャンル分けするのが自分だとしても他人だとしても、てめえ何様だよって思ってしまう。

文化もジャンル分けされやすい。サブカルチャーメインカルチャーハイカルチャーという言葉もある)。音楽とか特にそう。クラシック、ジャズ、ポップ、ロック、うんざりする。好きなものは、ジャンルなど放っておいて自分の感覚で派生していくことが面白いという実感がある。私の好きなものの広げ方のひとつとしては、作品に衝撃を受ける→作者を知る→作者に影響を与えたものが気になる→その影響を与えたものに衝撃を受ける、を繰り返すという方法がある。それは自然と時代を遡ることになるんだけど、めちゃくちゃ楽しい。思わぬ場所に行きついたり、違う入口から入ったはずの2つが同じ場所に行きつくこともある。あとは作者の友好関係を探るという広げ方もある。そうやってジャンルは度外視してひたすら繋がりを辿る。そうすれば音楽も本も絵も、意外と簡単に繋がる。なんか言葉にしたらごちゃごちゃしてしまったけど、たぶんみんなそうしてるんだと思う。それなのに例えば音楽の好きなジャンルとか決めつけちゃって、もったいないなあと思う。決めつけなければ、好きなものは無限に広げられる。「○○「だけ」が好き」などということはありえないと私は思う。

 

 

サブカルチャーって全然サブじゃなくない?と思うのは私だけだろうか。そりゃこの言葉が出てきた当時はサブだったかもしれない。それなら誰が基準なのか?メインは何なのか?と思わないこともないけどそれを深堀りするとさらに迷宮入りするので置いといて、時代は流動的なのだからサブやらメインやら分けない方がいいと思う。

 

 

そして残念なことに、サブカルチャーをファッションとして消化する人がいる。流行っているからという理由で表面だけ見て、そのもの自体の価値を見ず、考えずに評価を下す思考停止人間。サブカルチャーはそういう人の標的にされやすいのだと思う。流行りに触れることやそれで好きになることが悪いということでは断じてない。でも考えずに飲み込む悲しい人が多い。で、そもそも流行りとは誰かが意図的に作っているわけで、つまり思考停止人間は他人によってしっかりと踊らされているということであって、さらに悲しい人に見える。そういう人にはなりたくない。

 

 

ここで改めてサブカルチャーとは何なのか意味を調べてみたんだけど、なんだかぼやけている。まあそうだよね。文化はもっとなめらかなグラデーションみたいな感じだもんね。文化に線は引けない。ではなぜサブカルチャーという言葉が生まれたんだろうか。わかりやすい言葉が欲しかったんだろうか。文化に関してわかりやすくしようとしてしまう世界などつまらないなあ。

 

 

 

 

この話、考えるほどこんがらがってしまう。散り散りの文章であることに自覚はあるけどもう満足したのでここで終わりです。