11曲目、美しい

この世には、衝撃的ではなくとも心に深く刻まれるものがある。Tempalayの「美しい」という曲も、その中のひとつだ。Tempalayの3rd Album『21世紀より愛をこめて』の11曲目に収録されている。

 

この曲はTempalay、特に小原綾斗さんにとっての美しさが音楽になっているのだと思う。いろんな音で構成されているけど、そこに攻撃的な音はない。優しい。聴いていてホッとする。

音も歌詞も、心に近いものをストレートに表現しているのではないだろうか。それはアルバムの中でも、Tempalayの数ある曲の中でも、稀有な感じがする。

 

『21世紀より愛をこめて』のCDは『ゴーストアルバム』以前から持っていたけど、最近初めてこのアルバムをちゃんと聴いた。それでこれもやばいアルバムだということに気がついて、ついでに1stと2ndも買った。全部良くて困っている。そして『ゴーストアルバム』はTempalayの過去が気になるほど名作だ。今までのフルアルバムを揃えてみて、Tempalayは時とともにアップデートしつづけていることがわかった。本当に面白いバンド。これからもTempalayの行く先を見届けていたい。どうか、永く続けてほしい。

f:id:fiortys:20210502161105p:image

 

 

 

小原綾斗さんはやっぱりすごい。もちろんNatsukiさんやAAAMYYYちゃんがいるからこそ今のTempalayであることは大前提だけど、私は完全に小原綾斗さんの脳みそに惚れている。うれしかったり、なんだかくやしかったり。

小原綾斗さんのことを知る中で、自分と違うところの方が多いんだけど、似てるなと感じることも多い。田舎生まれ田舎育ち。天邪鬼。邦楽好き。あと、2年くらい前のインタビューで言っていた出不精とかひとり映画が好きとかもめちゃくちゃわかる。そのインタビューで好きな映画をいろいろあげていたけど、『青い春』が出てきたときはめちゃくちゃびっくりした。私も好きなやつだから。

同じものが好きということは、感覚が近いのだと思う。とても嬉しい(とはいえ他人なので、似てるから同じだと思わないように気をつける)。また、近いところがあるからこそ、小原綾斗さんのアンテナの高さ、多さがわかる。尊敬。

f:id:fiortys:20210502161039p:image

(こんなイメージ。拙い絵だな)

それでキャッチしたものをアウトプットして音楽を成しているのだから、すごい。私は楽器なら少しできるけど、音楽をつくることなどできない。すごい。小原綾斗さんのつくる音楽や歌詞が良い理由は、それだけ彼自身が、人、自然、音、言葉などすべてに対して、五感を存分に使って触れてきたからなのだろう。

 

 

 

そんな小原綾斗さんと放送作家の宇野コーヘーさんの会話が聞ける『ニュー宝島』というポッドキャストがある。

open.spotify.com

2人の掛け合いは何回聴いても面白い。「フッ」となることが多い。あと声が良い。2人の声が似てないから聞きやすいのも良い。2020年4月から始まって現時点で28回配信されている。今はTempalayがツアー中だからか1ヶ月以上更新されていないけど、その緩ささえ良い。不定期更新だろうと1回分の時間が大幅に増減しようと続いてほしい。次回の更新も楽しみ。それまで過去の配信を楽しんでおく。

 

 

 

私は今日も今日とて、Tempalayとニュー宝島を聴く。

サブカルの謎は謎のまま

私はサブカルが好き。と言えば、他人に自分の好きなものをざっくり伝えるには伝わりやすいと思うけど、私はこの「サブカル」がいろいろと好きではない。

 

 

まず私はとにかく何でもかんでも分けようとするやつが好きではない。人とか、文化とか。わかりやすくするために分けられるのだと思うけど、境界線にいる人やものもあることを知っているのだろうか。

人がジャンル分けされることは、特に学校で多いと思う。スクールカーストとか陰キャ陽キャとか。低俗だ。陰キャ陽キャと仲良くなれないのか?そんなことはない。ジャンル分けするのが自分だとしても他人だとしても、てめえ何様だよって思ってしまう。

文化もジャンル分けされやすい。サブカルチャーメインカルチャーハイカルチャーという言葉もある)。音楽とか特にそう。クラシック、ジャズ、ポップ、ロック、うんざりする。好きなものは、ジャンルなど放っておいて自分の感覚で派生していくことが面白いという実感がある。私の好きなものの広げ方のひとつとしては、作品に衝撃を受ける→作者を知る→作者に影響を与えたものが気になる→その影響を与えたものに衝撃を受ける、を繰り返すという方法がある。それは自然と時代を遡ることになるんだけど、めちゃくちゃ楽しい。思わぬ場所に行きついたり、違う入口から入ったはずの2つが同じ場所に行きつくこともある。あとは作者の友好関係を探るという広げ方もある。そうやってジャンルは度外視してひたすら繋がりを辿る。そうすれば音楽も本も絵も、意外と簡単に繋がる。なんか言葉にしたらごちゃごちゃしてしまったけど、たぶんみんなそうしてるんだと思う。それなのに例えば音楽の好きなジャンルとか決めつけちゃって、もったいないなあと思う。決めつけなければ、好きなものは無限に広げられる。「○○「だけ」が好き」などということはありえないと私は思う。

 

 

サブカルチャーって全然サブじゃなくない?と思うのは私だけだろうか。そりゃこの言葉が出てきた当時はサブだったかもしれない。それなら誰が基準なのか?メインは何なのか?と思わないこともないけどそれを深堀りするとさらに迷宮入りするので置いといて、時代は流動的なのだからサブやらメインやら分けない方がいいと思う。

 

 

そして残念なことに、サブカルチャーをファッションとして消化する人がいる。流行っているからという理由で表面だけ見て、そのもの自体の価値を見ず、考えずに評価を下す思考停止人間。サブカルチャーはそういう人の標的にされやすいのだと思う。流行りに触れることやそれで好きになることが悪いということでは断じてない。でも考えずに飲み込む悲しい人が多い。で、そもそも流行りとは誰かが意図的に作っているわけで、つまり思考停止人間は他人によってしっかりと踊らされているということであって、さらに悲しい人に見える。そういう人にはなりたくない。

 

 

ここで改めてサブカルチャーとは何なのか意味を調べてみたんだけど、なんだかぼやけている。まあそうだよね。文化はもっとなめらかなグラデーションみたいな感じだもんね。文化に線は引けない。ではなぜサブカルチャーという言葉が生まれたんだろうか。わかりやすい言葉が欲しかったんだろうか。文化に関してわかりやすくしようとしてしまう世界などつまらないなあ。

 

 

 

 

この話、考えるほどこんがらがってしまう。散り散りの文章であることに自覚はあるけどもう満足したのでここで終わりです。

鳥、思考

そこに鳥がいてね、鳴いてるんだよね。部屋の窓から見える。別にいつものことだし、どうでもいいと思っちゃったらそれまでだけどさ、鳴いてるんだよ。チュンとかチュンとかチュンとか、文字にしちゃうと同じになってしまうけど、いろんなイントネーションで鳴いてる。何言ってるんだろうね。私は鳥のこと好きなわけでも嫌いなわけでも研究してるわけでもないから知ったところで何にもならないけど、鳥は自分が今まで見たことしか知らないんだろうなあって思う。昔は電車も車もなかったこととかもっと自然に溢れていたこととか、自分が生まれる前の景色を知らない。ただただ今を生きるだけで、そこには幸せとか不幸せとかないのかもしれない。私からするとそれは穏やかなことだけど悲しいなあとも感じる。

 

って、とりとめのないことを考えてたらいつの間にか寝てた。春だねえ。

 

人は学校で歴史を勉強したり、本とか写真とか映像とかで自分のいない過去を知る。何が何だかわからなくなって一切放棄したくなることがあるほどに知る。生きてるとそうやって身に付けてきた知識や、人間関係や、好き、嫌い、持ち物が増えていく。あ、減ることもある。そんなことだから悩みは尽きず疲れてしまうけど、思考停止して多数派に流されることは決してせず、いま持ってるものを携えてとことん考えていきたい。

 

なんか鳥見てただけなのにこんな話になってしまった。たぶん私の思考の癖。

 

f:id:fiortys:20210424180509j:image

いまの空。鳥はとっくにどっか行った。

自戒、SNS疲れ

SNS疲れた。何度目かな。何度も疲れて辞めるのにまた再開してしまう。

 

私はSNSの何が良くてやってるんだろう。みんなやってるから始めたけど、何も考えずその流れに乗ってしまったことは良くなかったなあ。SNSって基本的にどうでもいいことばっかりなんだけど、たまに面白いことがあるんだよね。面白いことは好きだから、それが惜しくて辞められないんだと思う。SNSの何かが良いわけではなくて、辞められないだけだ。

 

私は文字があったら読んでしまうし、写真や映像があったら見てしまう。例えばツイッターだとタイムラインにある全ツイートを隅々まで読んでしまうし、インスタのストーリーにあるちっせえ文字の長文とかさ、ああいうのって逆に何がなんでも読みたくなってしまうんだよね。別に読まなくてもいいのに。読まない方が自分のためなのに。どうでもいいことだとわかっていても、見えるものは気になってしまう(ああなんか自分のスルースキルの無さに凹んだ)。

投稿するのも疲れる。だったら投稿しなきゃいいんだけど、何か面白いこととか発見があると知ってほしいからやっちゃうね。でも見られてるという意識が強すぎて色んなところが気になって疲れる。意味は伝わるかとか誰か傷つけてないかとか、タイムラインは見えちゃうものだから気にしすぎて何を言いたいのかわからなくなることもある。それでもやっちゃうね。反応があると嬉しいし。そういえば、いいねっていうのは数より人だなと思う。もちろん多くの人からのいいねは嬉しいけど、この人からのいいねはいいね20個分くらい嬉しいってことがあるから。

でも、誰にしても他人からの反応が嬉しいってことはそれだけ認めてほしいってことで、多分自分には自信がないんだよな。自信なんかなくても生きてはいけるけど、それでもやっぱりねえ。他人の目を気にして取り繕って他人に認めてもらうより、まずそのままの自分を認められたらいいな。強いところも弱いところもまるっと認めたい。そこまでの道のりは長そうだ。生きてるうちにそうなれるかな。前に比べれば取り繕うことはだいぶ減ったけど、だからといって他人に認められなくてもいいってほど強くはなってない(そんなこと未だにSNSやってる時点でお察しだよって感じだ)。

でも、自分がいいと思ったものがいい。それだけでいい。他人からの共感なんて要らないね。というか共感という奴は危ないよ、みんな同じだと思っちゃうからね。それで自分と違うところが見えるとその違いに違和感とか抱いちゃうもんだから、厄介だ。と、私の中の私の一人が言っている。

 

私には、誰も見ないけど見られる可能性はあるここの方が合ってるんじゃないかと思う。まだ始めてから1ヶ月弱だけだけど、ツイッターやインスタにURL貼っつけても思ったより見られてないことにほっとしている。見ようとしなきゃ見えないもんね。良かった(あ、これを読んでるあなたは誰ですか。読んでくれてありがとうございます)。一番読まれるときは私が死んだときかなあ。そのときくらいは読んでほしいかもしれない。生きてるときこんなこと考えてたんだあって知ってくれたらいいんじゃないかな。まあそれはどうでもいい。とりあえず、私は簡単には死なない。

 

SNSは禁止せずともほどほどに、何か思考が溜まったらここに吐き出すことにしてみる。散り散りの文章しか書けないけど、頭がパンクするよりはいいだろう。そもそも自分のために始めたことだから徹底的に自分のために書く。あと吐き出すときは全部出さないと気持ち悪いから全部出そう、中途半端が一番いけないんだよな。すっきりしゃっきり行こう。

春、化、美

f:id:fiortys:20210411152157j:imagef:id:fiortys:20210411152152j:imagef:id:fiortys:20210411152148j:image

 

今日は散歩日和だった。ここにはまだ雪が残っている。でも桜の花がやっと咲き始めてきた。春だ。暖かい日差し、冷たい風、土のにおい、うぐいすの鳴き声。ゆるやかだけど、確かに変化している。

 

多くの人は桜の花が咲くのを今か今かと待ちわびる。私もそのうちの一人だ。そう感じるのはなぜかというと、単純に、それが美しいからだと思う。だとしたら、多くの人の美しいと思う感性は似ているのだろう。なぜ似るのか。同じ土地に生まれたからだろうか。では物理的に遠く離れていると感性は違ってくるのだろうか。わからない。とはいえこれは多数派の話で、近くにいてもまったく違う感性の人もいる。それならもっと個を見なくてはならない。多くの人が桜は美しくないと言った場合、それでも私は桜を美しいと思えるだろうか。わからない。感性が似ているのではなく、実はただ多数派に流されているだけなのだろうか。わからない。

 


www.youtube.com

 

「花」という名前を与えられ21年と数ヶ月経った。私は花のように多くの人から好かれるような存在ではない。でもそれはたまたまで、特別なやむようなことでもない。「花」という名前は書きやすくて呼ばれやすいのが良いし「化」が入ってるのが好き、ただそれだけ。

 

花が咲くこと、音楽、言葉、姿、思考、すべてはこれまでの結果であり、これからへの過程でもある。今あるそれを抱きしめようとはしても、しがみつく必要はない。変化するものはずっと未完成だ。価値は比べられない。

 


www.youtube.com

 

21歳、勝訴ストリップ

これは3月上旬のこと。ふと思いついてサブスクで椎名林檎さんの2ndアルバム『勝訴ストリップ』を聴いてみた。そのときの衝撃は1か月経った今でも覚えている。それは「この椎名林檎、今の自分に似ている」という大変おこがましい衝撃だった。

 

 

 

以前から椎名林檎さんのアルバムや楽曲を聴いていて救われたり学んだりしたことはあったのだけど、これほどまでに共感したことはなかった。なのに『勝訴ストリップ』には、そりゃもう嫌になるくらい共感してしまった。たとえば、根拠なき全能感があるけどそれに対する羞恥もあるとか、根は真面目だけど遊ぶときはちゃんと遊ぶとか、矛盾していそうなものが共存しているところ。あと、今が過ぎることへの恐怖とか、余韻に浸る暇もないくらい今に忙しい感じとかもわかる。全体的に尖りやエネルギーに満ち満ちている。(椎名林檎さんと私の明らかに違うところといえば、純粋に他人のために動けるかどうかかな。私はなんでも他人よりまずは自分のためになるか気にするから。)まあ、共感といっても自分に寄せて解釈してるところもあるけど。それにしても共感の度が過ぎていて、自分のことがわかったような気分だった。

気になって調べてみたところ、このアルバムの発売日は2000年3月31日。当時椎名林檎さん21歳。なんと、今の自分と同い年。それを知ったとき、ヴッ…となってしまった。さっきの共感に妙に納得した。もちろん椎名林檎さんと私の21年間は何もかもが違うけど、同い年というのは不思議な引力を持っているものだ。

 

 

 

そういう運命というのも恥ずかしいが強烈な出合いを果たし、それからCDを買って何度も聴いた。ただ、私もずっとこのままでいるわけにはいかないので、これからはほどほどに聴こうと思う。『勝訴ストリップ』をつくってくださった椎名林檎さんには感謝感謝です。これに共感したことにより、今までつくられた椎名林檎作品がこれからの自分にとって道標になるのではないかと心強い気持ちになった。図々しいお願いだけど、椎名林檎さんにはこれからも脳内ダダ漏れの作品をつくっていってほしい。もし表舞台に立つのを辞めることになっても、それが自然な流れの上での決断であれば私は受け入れるべきだと心得ているつもりだけど、辞めないでほしい。だいぶ前に裏方業を本業に…みたいなことを言っていたのが気掛かり。不惑の余裕から2年以上経った今ではちょっとほっとしているところもあるけど、やっぱり気掛かり。できるだけ、私なんかからも見える場所に立っていてほしい。

今現在私の倍の年数を生きている椎名林檎さんに、私は年齢も経験値も絶対に追いつけない。リアルタイムで作品に共感することは少ないだろうけど、それでも、椎名林檎さんがいま存在していることで私の不確かな未来にぼんやり明かりが灯るような気がする。

 

 

 

しかし、椎名林檎という人間の実体は、知れば知るほどわからなくなる。たぶん全部が椎名林檎なんだろうけど。よっぽど確固たる軸を持ってる人なんだと思う。かっけえなあ。好き。

 

f:id:fiortys:20210405200319j:image

 

たけのこ御飯膳

今日は貴重な休日。

 

7:30 目覚める。布団の中でSNS徘徊

 

9:00 起床。朝ごはん。外のにおいがめちゃくちゃ春なことに気付く。歯磨き。洗顔SNS徘徊。YouTubeで良さげな音楽発見。

www.youtube.com

発音とか声に中国を感じたから中国のグループかと思ったけど、ウィキってみたら日本のグループだった。ボーカルの女性が北京生まれで、カナダ、上海、内モンゴルアメリカでも暮らした経験を持つ方らしい。ワールドワイドォ…。Miliはゲームへの楽曲提供を多くしているみたい。私はゲーム知識底辺だから今まで全く知らなかったけど、動画の再生回数が多いのが納得できた。

 

10:30 今日は何をしようかとワクワクしだす。とりあえずCDを眺めてみる。

f:id:fiortys:20210404122526j:image

(こういうのって眺めるだけで幸せ。だからCD買っちゃう)

 

10:45 じいとばあに昼ごはん誘われる。

え、ちょっと待って!それは想定外!今日は貴重な休日だから一人で音楽と本に溺れようと思ってたのに!急な予定変更無理!腹立つ!となりましたよね。まあでも私は優しい孫だし(腹立つ素振りを少ししてしまったのは優しくなかった。だってパジャマのまま髪の毛ボサボサな状態で11時に行こうと言われたんだもん)、提案されたのが好きなお蕎麦屋さんだったから、猛スピードで準備してお誘いについて行きましたよね。

たけのこ御飯膳を頼んだ。やっぱりこの店は裏切らないわ。何となく喋らなくてもいいような穏やかな雰囲気も好き。蕎麦はもちろん美味しかったし、たけのこご飯や山菜の天ぷらなんてこれぞ春!!って感じじゃん。美味しかった。ごちそうさまでした。さっきは腹立ってしまってごめんねえ。

 

12:00 家に帰ってくる。昼ごはんだけだったから午後から思う存分自分のしたいことできんじゃんって気付いた(遅)

とはいえ急な予定変更はやっぱり無理な気持ちになってしまう。でもたまには人の誘いに乗ってみるのも大いにありだな。

 

13:30 今。さあこれから何をしよう。